The Green Files

真綿

01────

「ねえ!」
唐突に、声をかけられる。読んでいた本から顔を上げるのも億劫で、ワタシは聞こえていないかのような無視を決め込んだ。
「それ、何読んでるの?」
視線と本の間に割り込むように、顔をねじ込んでくる。それは、この施設でのもう一人の『特別』だった。
 チルドレン養護施設────レネゲイドによる影響で親や家を失った子供たちを寄せ集めたこの施設。子供にも職員にもオーヴァードが多いここでは、普通であるはずのワタシのほうが特別だった。顔も知らないオーヴァードの両親のもとに産まれたというだけで、この牢獄にぶち込まれたのだ。ワタシは、ごく普通の人間でしかなかったというのに。そして、この少女も同じ。だからといって特に親近感なんてものは無く、これまで話したこともない相手だった。それが、この上なく心地よかった。
「『ツァラトゥストラはかく語りき』」
タイトルだけを簡素に伝える。むずかしそー、という、何も考えていないような感想が返ってきた。
 『特別』に対する人間の反応は、大抵は大きく2つに分かれる。忌避し排斥するか、同情し取り込もうとするかだ。その特別さが自分たちの利となる場合においては崇拝したりという選択も追加されるのだろうが、それは今はさして重要ではなく。兎角、ここの人間たちは大多数が「同情する」という選択をした。皆、優しくて正しいから。それが、ワタシにはどうにも息苦しかった。
 第一、彼らは大きな勘違いをしている。ワタシが彼らに馴染めないのは、ワタシだけが覚醒者ではないから、などという理由ではない。だというのに、彼らは勝手にワタシを肯定し、尊重し、仲間として認めるのだ。その見当外れで押し付けがましい優しさが、真綿となってワタシを絞め殺そうとする。だからワタシは彼らの仲間になんてなりたくなくてその優しさを突っぱねて、だから彼らはさらにワタシに優しさを向ける。卵が先か鶏が先かは知らないが、きっとずっとこのまま、溝は深まるばかりだろう。
 そんな中で、唯一この少女だけは、ワタシに声をかけてこなかった。興味ないと言わんばかりに、自分を突き詰めていた。だから、こうして話しかけられたときにワタシの胸中を占めたのは、うざったさと、結局彼女も周りの人間と変わらないのかという僅かな失望だった。
「おもしろい? それ、小説?」
「哲学」
早く会話を切り上げたくて、淡々と返す。しばらく視線を感じていたが、やがて飽きたのか不意にどこかへ立ち去っていった。それでいい。彼女は覚醒者の子供たちや職員たちとも問題なくなれ合っていたはずだ。交流や優しさを、気まぐれに欲しい分だけ啄むように、気ままに享受していた。ならば、わざわざ自分と関わる必要は無い。ワタシは、何かを害したいわけではなく、ただ静かに呼吸をしていたいだけだった。

 その、数日後のこと。本を読もうとお気に入りのいつもの席に向かうと、そのすぐ近くに彼女がいた。気にすることも無く本を広げると、彼女も特に話しかけてくることなく、紙を捲る音だけが響く静かな時間が流れていく。そうして数時間が経って、ふと顔を上げると、彼女と目が合った。
「……なに?」
こちらをただ凝視してくるのが気味悪くて、思わず問う。ゆるりと、彼女は首を振った。
「ううん、別に何かあるわけじゃないんだけど。この前あなたが読んでた本、読んでみたんだよね」
興味が欠片も湧かなかった。読んだことがある本の他人の感想など、どうだっていい。だからそのまま手元に視線を落としたのに、そんなことはお構いなしに彼女は話し続ける。
「難しいし、何言ってるのかはよく分かんなかったけど。お話としては面白かったな」
呆れた。なんて、中身の無い。勿論、同じものを見ても抱く想いは人それぞれ。それでも、こんなに空っぽに出来るのはある種の才能だ。
「大人になったら、こういうのも分かるのかなあ。私にはまだ早かったみたい」
「感受性に年齢は関係ない」
結局、それまでの人生で何をどれだけ吸収できたか。当然、生きている年数が多ければ自動的に情報量は増える。どれだけ怠惰で無為に過ごしていたとしてもだ。それを、『大人になったから分かるようになった』と言うのは、何かずれているような気がする。
「君は、じゃあ分かるの?」
「さあ? 人の考えを完全に理解することなど出来ないからな。そういう意味では、ワタシも『分からない』」
「ふぅん。なんていうか、何でも難しく考えるんだね」
「キミは、なんでも表層だけを捉えるんだな」
「身の丈ってやつ? でも、たまには背伸びもしなくちゃいけないのかもね」
言葉に棘を仕込んでみても、気にした風もなく明るく返ってくる。厄介だ。大抵はここまであからさまな拒絶をすれば、怒るか呆れるかして、ひとまずは諦めてくれるというのに。
「ちなみに、それは?」
彼女の指が、ワタシの手元を指す。並ぶ文字は『死に至る病/キルケゴール』。そのままパタンと閉じ、押し付けるように差し出した。
「え? いいよ、同じの探すか今度図書室とかで借りるし。まだ途中でしょ?」
「一度読んでる」
言って立ち上がり、彼女に背を向ける。
「そっ……か。じゃあ読み終わったら返しに行くね」
戸惑ったように本を抱える彼女を尻目に、足早に立ち去る。何故『返す』という行為が伴う行動を取ったのかは、自分でもよく分からない。人と話すことに今は価値を見出せないというのは間違いがない。間違いないのに。

 それから数度、彼女に話しかけられて。ひとつ、気付いたことがある。彼女は本当に、一切何の思惑も無く、自分の興味関心においてのみ行動していたということ。最初にワタシに声をかけてきたのも、『彼ら』のような善意の押し付けではなく、純粋に本が気になっただけ。その後度々話しかけてくるのも、彼女自身の好奇心によってワタシのことを知りたくなっただけ。最初から知っていたはずなのに。彼女は『気ままに欲しい分だけ啄んでいる』と。何故ワタシに対する行為だけ、そうではないと思ってしまったのだろう。人によっては奔放で身勝手とも受け取るであろうその態度を、一切の気遣いも善意も感じないその言動を、どこか心地よく感じ始めるのに大して時間はかからなかった。

 同様に、そこに醜い独占欲が混ざり始めるのにも。

 ────嗚呼。
 欲しい。
 求めていたのは、あれだ。
 愛しいワタシの呼吸器。
 ワタシを絞め殺そうとしない、唯一の人。
 欲しい。
 あの子の何もかも。
 全部、堕として、心酔させて。
 欲しい 欲しい 欲しい。


 ワタシの親はもう帰らぬ人であり、顔も碌に覚えていない。けれど生前はUGNの人間であった以上、ワタシにはその2人が言い残していった名前があった。だから、
「そういや、何て名前なの?」
などと、今更過ぎる質問をされた時、
「ミオ」
と一応回答となるものを持っていたことになる。
「……キミは?」
「ユキ、って呼ばれてる。由来とかは、何も知らないけど」
名乗った彼女の顔をじっと見つめる。「な、なに……」と困ったような彼女を逃がさないように、じっと。
「もしも、」
ゆっくり、低く、それでいて優しく。
「もしもワタシがキミに名前を付けたら、使ってくれる?」
大きく大きく目を見開く彼女が見えた。それはそうだろう、我ながらあまりにも唐突だ。だが、これまで────ワタシと関わる以前からの観察も含めて────の彼女の言動を見る限り、断られることは無いだろうという自信があった。
「うーん。いいよ。他の人もそれで呼んでくれるかは分からないけど」
「いい。キミがそれを自分の名前だと認識してくれればそれで」
恐らく、職員たちはいい顔をしないだろうなと思う。恐らく、これも相応に考えられて付けられているものだろうから。それでも。いや、だからこそ。
「名前というのは、何かしらの意味を込めて付けるものらしい。けれど、付けた人間はもうおらず、その願いは分からない。持ち主にも思い入れが無いのなら、最早識別番号と変わらない。ならここで、ワタシたちにとっての『名前』を付けるのも悪くないと思わないか?」
これは、ワタシなりの本心だ。
「確かに。チルドレンのみんなも、そうやって名付け合いとかしてるもんね」
了承を聞いて、勝手に唇が弧を描く。こうして、ひとつずつ、少しずつ。
「なら、キミは今日から『あやめ』」
こく、と頷く彼女。
「それはなんで? 『名前』を付けるってわざわざ言ってるってことは、由来とかあるんでしょ?」
「ワタシの髪色」
やや青みがかった髪。それは特に、気に入っているわけでもコンプレックスでも無かったが。
「これで、ワタシはキミの一部」
「じゃあ、そうだな」
呟きながら、彼女は自分の赤毛を摘まむ。彼女────あやめの性格上、同じようにつけるであろうというのは予想出来ている。
「赤……。『紅亜』とかどう?」
「……あはっ」
「え? な、なに?」
思わず噴き出し、驚いたあやめの顔でさらに笑いが止まらなくなる。
「いいや? 流行りのキラキラネームというやつだな、それ」
「嫌だった?」
「そういうわけではないぞ。むしろそうだな」
不安そうな彼女の赤毛を撫で、その手をそのまま頬へと滑らせる。
「気に入った。ありがとう」
これで、彼女はワタシの一部。


 優しさの温床らしく、この施設ではオーヴァードではないワタシへの支援も手厚かった。この面談も、その一環。
「最近、ユキちゃんと仲良くしてるみたいね」
温和そうな────というよりは、温和そのものの女性職員が微笑む。
「安心したわ。あなたにも友達が出来たみたいで」
心の底からの本心で職員は笑う。思わず顔を顰めそうになった。
「何度も言っているように、あなたのご両親はオーヴァードだった。オーヴァードの間に産まれた子も覚醒しやすい傾向があるわ。それは、何がきっかけになるか分からない。万が一のことがあった時に、今のあなたではあまりに危ういのよ」
それは、物心ついてから繰り返し言われ続けている言葉。立場から形式として言っているわけではない、中身の詰め込まれたもの。それでも、どうしてかワタシには響かなかった。
 オーヴァードとして覚醒する確率などあまりに低い。命の危機に瀕しても大多数はそのまま死に、レネゲイドと呼応したとして、その半数は絆を保つなどという段階を通り過ぎた存在となる。肉親にオーヴァードがいるというのを加味したとして、それはあまりに可能性の低い『もしも』だ。だから、そのために変わるなど無意味。彼らの言葉を受け取れない理由を言語化するのであれば、こうなる。けれどそれ以上に、あの湯水のように湧き上がり続ける彼らの善性に、言いようのない気味悪さを感じていた。
「私たちオーヴァードはね、人との繋がりによって人間性を保ってる。そして、それを作ってくれるのは、誰かに与えた優しさや気遣いなのよ。もちろん、怒りや憎しみなんてのも人と人との繋がりではあるけれど……負の感情を抱き続けるのは大変だから、すぐに壊れてしまう。それに、明るい感情でいたほうが楽しいでしょう? だから、あなたに友達が出来たことが、私はすごく嬉しい」
そして、その善性を、ワタシも当然持っているものだと思い込んでいる。心のある人間ならば、それを他者に分け与えられて当たり前だという共通認識が、ここにはある。一言で言ってしまうのなら、この場所はワタシにとってディストピアなるものだった。ワタシは、無菌室で生きられる人間ではなかった。
 だからワタシは必要最低限────特にこの定期面談では一言も話さなくなっていった。窒息しそうになっているのに、言葉など紡げるはずもなく。

 この世界の全ての人間が、彼らのような清く正しい存在であるとは思えない。もしそうならば、彼らに『任務』は発生しないだろうから。
 ならば、この場所をこうして整えている要因は何なのか。
 彼らの言葉から推測するのなら、「オーヴァードとしての人間性の担保」。
 それなら、もしも覚醒する時が来たら?
 ワタシも、彼らと同じ善意のモンスターにならなければならない?
 レネゲイドは、衝動という名で感情を隆起させるのだとか。
 けれど、それがレネゲイドに起因するものであるとどうして言い切れる? それは、本当に自分の心から零れたものかもしれないのに?
 つまり、こういうことだ。
 オーヴァードとしての覚醒は、結果がどうあれ『ワタシ』を殺す。
 いいや、それ以前に。
 いつかワタシは、ここで緩やかに絞殺される。

 それならいっそ。と、ある日あやめに告げた。
「ねぇあやめ。自分を見失うくらいなら、今のまま一緒に死なないか?」


02────

 それは、あまりに唐突で。今でもまだ、どうしたら良かったのかは分からない。その時の私は、多分馬鹿みたいに呆けた顔をしていたんだと思う。同時に、心中なんてものをこの年齢で考えた彼女に、少しの恐怖とおぞましさを感じてしまった。そしてそれが、紅亜にとって大きな裏切りだった。
 少しの間、無言で見つめ合う。意図があったわけじゃない。何も言うことが出来なかっただけ。その静けさを打ち破ったのは、彼女の小さなため息と、諦めたような笑顔だった。
「待って……。待って……!」
その後に彼女が何をするのか分からないほど、私は紅亜について無知ではない。掴みかかるように手を伸ばして、けれどそれは間に合わなかった。
「残念だ。キミとなら、一緒になれると思っていたんだがな」
取り出したのは、小振りな拳銃。一体どこから、なんて、今はどうだっていい。
「ばいばい、あやめ」
「やだ、紅亜────!」
人一人の命が失われるにしては、あまりに安っぽい音。そうして、赤い華が散って、彼女は二度と起き上がらなかった。────せめて、そうあってほしかった。
 ゆらり、起き上がった彼女の身体が、赤くひび割れる。血肉? いや、それは熾火。燃え上がることなく、自身の内から周囲を灼く、静かな炎。その身から零れることのない、芯を焦がす熱。それはまさしく化け物で────嗚呼、彼女は死んだのだ。今のアレを紅亜と呼ぶことは、彼女への侮辱だ。
 ぼんやりと紅亜だった人を見る。だって、それはあまりに唐突で。脈絡のないこんな誘いに上手く返せるほど、頭の回転が早くもなければ、特異でも無かった。仕方が無かったんだ。会えば淡々と哲学を語る彼女がまさか自死を考えていただなんて、思いもしなかった。だって、いつだって紅亜はいつも通りだったんだから。そんな兆候は、何も無かった。
 ────嘘だ。気付いていた。彼女が時折、消えてしまいたそうな目で、どこか遠くを見ていたことに。周囲を突き放すことで、必死に自分を守っていたことに。『いつも通り』だったことには違いない。けれどそれは、私と出会った頃にはもうとっくに限界だっただけのこと。きっとここは、紅亜にとって地獄だったのだ。それに気付いていながら、私はあの子に何もしなかった。漠然と、今が続いていくと思っていた。馬鹿げている。ここはそうやって、日常から零れ落ちた人間たちの集まりだというのに、自分たちだけは例外だと思っていたのだ。何の、根拠もなく。
「ごめん、ごめんね」
彼女の熱が、怒りが、苦しみが、私を焼く。数滴零れ落ちた涙程度じゃ、私を守るのにも、彼女を救うのにも足りなかった。
「あや、め……」
変わらない紅亜の声。もう理性のない彼女のそれに、明確な意思があったのか否か。いや、そもそも私の幻聴だったのかもしれないけれど。
「紅亜。分かった、分かったよ。じゃあ……」
呼吸も儘ならないほど、体が熱くなる。紅亜の背後の窓ガラスが、熱に耐えきれなかったのか砕けて割れた。一歩一歩彼女に近付いて、その身体を抱きしめる。肉の焦げる、嫌な匂いがした。それでも、彼女の痛みはきっとこんなものじゃなかった。だから、そのまま。
「一緒に、終わろう」
彼女を抱いて、割れた窓から身を投げた。


 結果として、当然私は死ななかった。私だけ、死ねなかった。レネゲイドの再生力とUGNの迅速な対応は、私だけを助けてしまった。あの時、私も一緒に覚醒してしまっていたらしかったのだ。
「どう、しよう」
激しい後悔と、深い絶望。もうあの子はここにいない。私が殺した。私のせいで、あの子はあんな姿でひとりで死んだ。遠い未来で目覚める未来すら奪ってしまった。もっとも、あの紅亜が凍結保存なんて望むとは思えないけれど。
「どうしたらよかったんだろう」
それは別に、誰かに答えを求めていたわけではなくて。答えなど無いことを知っていて。それなのに、要らない『答え』を彼らは私に与えようとした。
「ユキちゃんのせいじゃないよ、大丈夫。誰も怒らないから、安心して?」
思わず、首を傾げそうになった。だって、少なくともあの結末を迎えたのはどう考えたって私が要因だったし、こうして悩んでいるのは別に彼らに怒られるのが怖いわけじゃない。見当外れな優しさは、不快とまではいかなくとも、彼らへの不信感の種を撒いた。彼らを頼って生きることは、もう出来ない。ちら、と視線だけを送って、逃げるように自室に籠った。
 ただただ、考えた。今からでも彼女のために出来ることはなんだろうと。死者には何も届かない。それを分かっていながら、それでも自分に与えられた未来を自分のためだけに使うことが出来るほど、彼女は私にとって小さな存在ではなかった。
 紅亜の最後の願いは、私と一緒に死ぬこと。彼女自身がもういなくなってしまった今、どうすればそれを叶えられるのだろう。ただただ、考えていた。


 オーヴァードとして覚醒した私は、諸々の検査の結果前線に出られる性能をしていると判断され、チルドレン訓練課程を受けることになった。私自身が反対しなかったことも手伝って、編入手続きはかなりスムーズに進んだらしく、それまで暮らしていた施設から訓練を主としたところへと移るのに、然程の期間はかからなかったのを覚えている。
 そうして、自身の特性が類い稀な聴力であることが判明し、それを伸ばす過程で私は視力を失った。何のことは無い、何にでも副作用は付き物だし、特に気にしてはいない。むしろ以前よりよく見えるくらいだったし。それよりも、私の視力が無いことに教官たちが気付くまで1週間もかかったことの方が、私にとっては大きな事実だった。以前の施設ではあり得ないこと。そんな無関心さが、寂しいようで、なんだか気楽でもあった。
 施設で学ぶのは、レネゲイドコントロールについてだけではない。任務に必要な外界の知識や協調性なども叩き込まれる。なるほど、確かにそれは、皆が無事に過ごすために必要なのだろう。その重要性を理解しつつ、しかし私は、それを適度に跳ね除けていた。私は────ワタシは、その頃には『千波紅亜』の名を名乗っていたから。
 既に死んだ人間ともう一度死に直す。そんなことは不可能だ。死者蘇生なんて奇跡は起きるはずも無いし、来世を待つほど悠長にもしていられない。だから私は、自分の中に紅亜を形作ることにした。世の中には、架空の物語の架空の人物の死に、本気で打ちひしがれる人間もいるらしい。ならば、それが再現であったとしても、いつの日か『私の死』は『ワタシたちの死』と同等の意味を持つはずだ。そこに実際の命が無くとも、描かれた人格によって価値が生まれるということだから。私は、紅亜として死ぬために、あやめとしての未来と、彼女からもらった大切な名前を捨てることを選んだ。紅亜のため、などと寝言を言うつもりはない。これは、彼女の願いを叶えたいという私自身の願いだ。例えそれが、愚かだと断じられようとも。
 明確に豹変したワタシを見て、教官たちは焦ったようだった。誰を模しているのかは明らかで、その誰かはジャームとなって死んでいる。それでなくても、周囲との必要以上の関わりを避ける態度はオーヴァードとしては致命的であったし、それで多少のトラブルも起こした。その度に湧き上がる罪悪感を、必死に抑え込んだのだ。紅亜はきっと、そんなことは考えたりしないから。
 順調に────とは傍から見れば言い難かったかもしれない。それでも、特に延長も無くチルドレン養成課程を終えたワタシは、そのままとある支部へ配属となり、近隣の小学校へカヴァーと一般教養を兼ねて編入した。世間に出しても問題ないと判断されたというよりは、恐らく少しでも人と関わらせなければならないという意図があったように思う。
 そうして触れた外界は────紅亜と出会ったあの施設からは想像も出来ないような、けれど取り返しがつく程度に汚くて意地悪な場所だった。皆、適度にお互いを傷付けて、ズルをして、それでいてちゃんと繋がりを持っている。清廉潔白ではなくとも、彼らは人だった。そういうものだと知ったのだ。それがとても、悲しかった。
 教室の窓からぼんやりと街並みを眺めながら、ひとり、ずっと思っていた。外の世界は、善意も悪意も綯い交ぜで。この景色を、紅亜に見せてあげたかったと。あの子が何に耐えかねて自死なんてものを選んでしまったのかは、未だに私には分からないけれど、少なくともあの施設よりは、あの子は普通に平凡に、それなりに幸せに生きられたんじゃないかと、そう思えてならなかったのだ。もちろん、施設の人々が悪いわけじゃない。あの人たちは、最大限私たちが幸せになれるように考えてくれていたのだと思う。ただただ、相性が悪かっただけの話だ。当時のワタシたちには、あの場所しかなかった。認識していない『外』なんて、ワタシたちにとっては存在していないのと同じだった。ワタシたちは、矮小な世界に生きていた。
 もしこの広い世界を、ふたりで歩んでいけたのなら、なんて、実現するはずのない幸せを夢想してしまったのだ。


 それから数年、中学校へと進学し、ワタシは14歳になっていた。ワタシに対する周囲の評価は様々で、扱いづらいと毛嫌いする人間もいれば、愉快な変人として遠巻きに観察する人間もいたし、面白がってよく話しかけてくる人間もいた。あの頃の紅亜とは少し違う人格になっていたが、きっとこの環境で成長した彼女は、気難しさと少しの愛嬌を備えた人になっていたと思う。何となく、そんな気がするだけだが、少なくともあの頃よりはずっと明るい人になっていただろう。
 そんなわけで、ワタシ自身は特に孤独などは感じていたわけではなかった。だが、大人たちから見ればそうではなかったらしい。
「始めまして、“固有世界”」
支部の休憩室で紙パックのジュースを啜っていたワタシに話しかけてきたのは、落ち着いた口調の女。あまり積極的に人と関わるわけではないワタシだが、ここの支部はあまり大きいわけではない。支部の人間ではないことは、すぐに分かった。話しかけてきたのなら、用があるのならお前から名乗れ、とばかりに言葉を返さずじっと見つめる。
「“シルクスパイダー”、玉野椿です。少し、時間いいかしら」
表情を変えないまま、パチパチと目だけを瞬かせる。ワタシでも名前を聞いたことのある大物。何を思って話しかけてきたのかは知らないが、この時点で碌なことにならないだろうという予感があった。
「……千波紅亜。それで? 何か用か?」
ワタシがそう答えると、玉野は何かを考え込む。その表情は、強く何かを懸念しているようだった。
「聞いていた通りの子ね。……今から大事な話をするわ、よく聞いて」
耳を澄ませても、周囲に人の気配はない。ワタシをカウンセリングルームなどに連れて行くより、こうしてその場で話しかけたほうが確実という判断の元、人払いがなされたのだろう。他の支部員にとっても迷惑な話だろうと、ぼんやりと思う。
「千波紅亜────いえ、あやめさん。はっきり言うわ、あなたは自分で思っているよりずっと、危うい状況よ」
その呼び名に、肺の奥が凍り付くような感覚を覚えた。この支部のチルドレンやエージェントには、ワタシの生い立ちは伏せられている。ワタシへの配慮というよりは、チルドレン施設内でのジャーム発生事件とその当事者である事実など、末端まで知らせるメリットが薄かったためだろう。だが当然責任者である支部長やそれ以上の立場の人間にはそういった事情は行き渡っていただろうし、玉野椿ほどの人物を要請したとなると、それは相応の立場の人間。ワタシの相手をする玉野にも、その情報は渡っていて当然だ。そう、頭で考えれば、何も不思議なことは無かった。それでも、それは私にとってはタブーで。
「あなたは、ずっと自分を隠して過ごしている。もちろん、そうすることに決めた経緯はあるのでしょうし、あなたにとって大切なことだというのも理解はしているわ。けれど、それじゃあなたはいつまでも独りぼっちなのよ」
……分かっている。『千波紅亜』なんて、存在しない。それは虚像でしかなく、ワタシが得たものは私のものではない。今の私には、何もない。
「オーヴァードだから、とか関係ないわ。今のままだと、いずれあなたという存在が消えてなくなってしまう。その果てにあなたの幸せがあるとは思えないの」
何を言い返せばいいのだろう。あの子ならどうするのだろう。きっと動揺もせずにただ黙って聞き流して、だから『ワタシ』もそうするべきで。違う、今の私のこれは、ただ戸惑っているだけ。これは『紅亜』じゃない。もっともっと、ワタシは彼女でいなければいけない。
「今すぐにやめろ、なんて言わないわ。それはとても難しいことでしょうから。少しずつで良いから、ちゃんとあなたらしい行動を取ってほしいのよ」
チルドレン教官の顔とも言える玉野をわざわざ呼んだのだ、恐らくは検診や観察で、何か看過できないエラーがワタシに見つかったのだろう。それが何なのかはワタシには分からないけれど。
 ワタシらしい行動。私の望み。それが指し示したのは、ひとつ。
「……あはっ」
乾いた笑い声が漏れた。
「そう、分かったよ。最初から無理な話だったんでしょ、ここで彼女になるなんて。じゃあもうやめる、嫌になっちゃった」
立ち上がって玉野に背を向け、そのまま出入り口に向かう。背中から、彼女の声がかけられた。
「あなたは直接の教え子じゃない。でも、チルドレンとして、UGNの仲間として、あなたの力になりたい。本気でそう思っているわ」

「……残念だけど、それは今日までだね」
こっそり支部を抜け出し、夜風に当たりながら呟く。
 内心はと言えば、怖くて仕方が無かった。UGNが? 玉野が? そのどちらでもない。ただ、『千波紅亜』を否定されたこと、自分でもそう思ってしまったこと。それが何よりも恐ろしかった。千波のままでは、人との繋がりを作れない。だが、『千波紅亜』が認められないのなら、そもそも繋がりを作るための自分が存在しないのだ。あやめはもう、死んでしまった。UGNにいる限り、ワタシは『紅亜を真似るあやめ』でしかなく、それでは意味が無いのだ。ここにいる限り、私はワタシには成れなかった。それを、痛いほど理解してしまったのだ。
 行く当ては無い。これからどうやって生きていけばいいのか分からない。それでも、もうあの場所にはいられなかった。
 冷たく、霧雨が降り始める。


03────

 濡れるというより、湿らすといった様子の雨。天気が悪い時はいつもの裏路地で過ごすことは出来ず、雨を凌げる高架下へと皆で移動する。夜とはいえ、人通りが全くないわけではない。通行人に嫌な顔をされたり、酷いと石を投げられたり。だから、雨は嫌いだった。
 オーヴァードを相手にしない傭兵業。それは命の危険が殆ど無い代わりに、なかなかその辺りに転がっているものではない。多少の年齢詐称はしているとはいえ、俺は見た目からしていかにもひ弱そうだし。それならまだ、レネゲイドの世界のほうが仕事は多いのだろうが、そうなれば必然的にUGNやFHと関わることになる。正直、どちらにもいい思い出は無いし、もう関わりたくもない。結果、やっていることが『オーヴァードによる未覚醒者の虐殺』だと言われれば、それは反論の余地が無いのだが。それでも、他の生き方をしようにもそれを選べるだけの学は無いし、いつだって選択肢なんてない。
 ここにいる人間は、みんなそうだ。頼る先も、他の選択肢も無く社会から零れ落ちた子供たちだ。先行きなど見えない、というよりは、今日を生きていくのに必死で、先など見ている余裕が無い。漠然とした不安を抱え、どうしたものかとぼんやり考えながら、すやすや眠る子供たちを横目に見ていた。
 瞬間。
 どくん、体内のレネゲイドが一瞬活性する。皆寝ているから分かりづらいが、これは。
「《ワーディング》……」
偵察をすべきか、ここで守りに徹するべきか。一瞬考えてから、子供たちごと《無音の空間》に巻き込んでその場で息を潜めた。特別耳が良いわけではないが、複数人の足音が聞こえる。《ワーディング》下で動き回っているということは、何かしらの目的を持ったオーヴァード集団だろう。UGNであれば、このまま一般人の振りをしていればやり過ごせるだろうが、それ以外なら。戦えないどころか、意識も無く逃げることも出来ない子供5人を守り切る技量は、自分にはない。こくり、喉を鳴らしていると。
 一人分の足音が、こちらに向かってくる。ぐるぐると回り、目的があるようには到底思えないようなそれが、しかし、角を曲がって視界に入る。
 どうにも憔悴した様子の、赤髪の少女がそこにいた。というか。
「え? ちょっと……」
目の前に俺たちがいるにも関わらず、それがまるで見えていないかのように突き進んできて。
「なん……待っ……!」
「……!?」
子供たちが踏まれる、と思った時には、既にそれを庇って少女とぶつかっていた。数歩よろめいて、きょろきょろと周囲を見渡している。俺は目の前にいるのに、だ。『見えていないかのよう』じゃなく、これは『見えていない』のだろう。ともあれ、動いてしまったものは仕方がないと、自分だけ《無音の空間》を解除した。瞬間に。
「……」
少女の目が、こちらを向く。数秒、お互いに探るように黙りこくって。
「……あんた、オーヴァード?」
などと、間の抜けたことを聞いてしまった。当たり前だろう、今ここで動いているのだから。
「そういうキミこそ。このワタシが見つけられなかったなんて、なかなかやるな」
何故か尊大な態度で、少女が言う。
「……見えてないんだろ」
「ああ。目はね」
そのはずの彼女の視線は、しっかり俺に向いていて。そういうことかと納得する。視覚以外で周囲の状況を把握することが出来たとしても、オーヴァードなら別に不思議ではない。
「それで? キミは一体こんなところで何をしているんだ?」
「それ、そのままこっちも聞きたいんだけど……」
流石に、この状況で自分の情報だけを与えるようなことはしない。他にも複数人のオーヴァードがいることが分かっているのだし。
「ふむ、まあ当然か」
言って、少し考え込んでいたが、急に顔を上げて。
「いいだろう。ワタシは千波紅亜。少し追われていてね、良ければ匿ってくれると嬉しいんだが」
「……は?」
急に何を言い出すんだ、こいつは。困惑する俺を他所に、千波は勝手にしゃべり続ける。
「いやはや、参ったよ。まさかワタシひとりをここまで大真面目に追ってくるとは思わなかった。これか『モテ』というやつか」
「……ちょっと待ってくれる?」
放っておけばずっと関係のない話をしそうなのを、思わず遮る。というか、本当に追われているのならここでこんなどうでもいい話をしている場合ではないのではないか? などと、自分には関係のない心配をしてしまった。
「色々と聞きたいことはあるんだけどさ……。追われてるって、何に? 何したんだよ……」
「UGNだが」
「そっかUGN……、ん?」
納得して、そのまま流しかけて引っかかった。あまりにも。あまりにも当然のように言うものだから。
 一瞬の間の後、ナイフを抜いて千波の首元に突きつける。
「ほう、急にどうした」
それでもなお軽薄な態度を崩さない彼女。何を理由にそんな余裕があるのかは知らないが。
「お前、何者だ? もし……」
世の中は多分、俺が思っているより複雑で。そんな単純な構図で出来ているものではないのは分かっているが。だがしかし、UGNに複数人で追われる存在ならば、可能性が高いのは。
「もし、FHなんだったら、ここで殺す」
《真偽感知》を発動させながら、千波の次の言葉を待つ。刃物を向けられたまま、少女は笑った。
「はは、そうか。確かにそう捉えるのが自然だな。だが残念、誤解だ」
はっきり言え、とそのまま微動だにせず見つめていれば、観念したのかまた口を開く。
「……ワタシは、元UGNチルドレン。要するに、脱走してきたんだよ」
その言葉に、嘘は無い。相も変わらずへらへらした態度のまま、千波は数歩、俺から距離を取った。
「ま、そういうわけだ。追手の奴らにはくれぐれも何も話してくれるなよ」
「そ、それが人に物を頼む態度かよ!」
そのまま立ち去ろうとする彼女の手を、思わず掴んだ。
「行くあては? これからどうするんだよ」
その状況を、自分と重ねてしまった。多分、余計なお世話なんだろう。悪い癖だ。
 どういういきさつで、千波がUGNチルドレンになったのかは分からない。けれど、レネゲイド事件での生き残りの覚醒者や、生まれながらの能力のせいで家族に捨てられた者が多いと聞く。なら、UGNの外に頼る先なんてないんじゃないかと、そう思ってしまった。
「なんだ、心配してくれてるのか?」
強気に、不敵に笑う顔を、ただじっと見つめる。しばらくすれば、そっと目を逸らし、ついには顔を背けた。
「無いよ、そんなの。ワタシは、ワタシを知らない場所に行くんだ」
それは、どこまでも真剣で。けれど、どこか心細そうで。それを見てしまえば、このまま彼女をひとりで行かせるなんて出来るはずも無く。
「こっち」
と手を引いて、路地裏へと引き込んだ。
 一見ただの隙間や私有地にも見える細い路地を通って。案内したのは、家と家の間に何故か出来ている小さな広場のような場所。
「あんたを追ってるのがどういう能力を持った奴か分かんないから、絶対安全とは言えないけど」
ここまで来てようやく、握ったままだった手に気付いて、内心焦って離した。
「ここ、かなり入り組んでるから詳しくないと辿りつけないだろうし。周りの家の庭木で上からもあんまり見られない」
ひとまず追手をやり過ごすには、中々に向いた場所だと思う。多分。そんな説明を、千波は不思議そうな顔で聞いていた。
「何のつもりだ? ナイフまで向けたってのに唐突に」
「何……って、別に。あんたが言ったんだろ、匿えって」
そう返せば、一瞬ぽかんとした後、爆発するように彼女は笑い始めた。
「愉快な奴だな、キミは! ────それで」
一瞬とはいえ、なんだかこの傲慢そうな女に間抜けな顔をさせたことに、少しの満足感を覚えていたら。
「ワタシは名乗ったんだが?」
「……あっ」
言われて、確かに何も話していないことに気付く。
「……久遠緤。俺は」
言うべきか、少しだけ迷って。それでも、それは多分、自分と彼女の、今は唯一の共通点だから。
「元、FHチルドレン」
「なるほどな」
にっ、とあくまで強気に笑って、千波は言う。
「うん。なんだかワタシたち、いい友人になれそうじゃないか?」
「だといいけどな。……とりあえず俺は戻るから。向こうが落ち着いたらまた顔出すけど、……まあ、それまでここにいるかどうかは好きにしたらいいし」
高架下に子供たちを置いてきている。追手がUGNだというのなら然程の心配は無いだろうが、それでも長く開けたくはない。
 また路地に踏み入れる背中に、千波の視線を感じた。
「……なんか」
外に出てから、周囲にいるのは年下の非覚醒者ばかり。あらゆる意味で、『守らなければならない存在』しかいなかった。それが、ここに来て急に自分と似たような境遇の、恐らくは肩を並べられる相手。だがしかし、俺の感想としては。
「変な猫でも拾った気分だな……」
と、そんなものだった。